元安川(もとやすがわ)は広島市の中心部を流れ、広島湾に注いでいる。川にかかる万代(よろずよ)橋と広島市中島国民学校(現:広島市立中島小学校)に挟まれた広島市水主町に母の実家はあった。
1945年8月6日、3歳だった飯田國彦さん(82)はそこで被爆した[1]。爆風でガラスが左上腕に刺さった。
生き残って工業高校に学び、三菱重工業に就職して原子力を学んだ。そして原発建設のために重機を提供する仕事に携わった。いまは、原爆の語り部として活動している。
2023年8月26日、飯田さんは、広島市の平和記念公園で、上智大学文学部新聞学科の学生たちを前に、自身の被爆体験、原爆の実相を語った。
1942年、満州国に生まれた。父は逓信局の役人だった。飯田さんによると、「2歳の頃には、日本語と中国語を流暢に話し、中国人の友達と遊んでいた」という。
1945年、父は沖縄戦で戦死した。それを機に、母、姉とともに日本へ引き揚げ、祖父母がいる広島に移り住んだ。
1945年8月6日。その日は、引っ越しのあいさつで母の実家を訪ねた。母方の祖父は証券会社を営み、広島市の中心部に邸宅をかまえていた。
縁側の軒先で庭の鯉を眺めていた。室内にいた母に呼ばれた。
「くにちゃん」
部屋に入った。その瞬間だった。
「ピカっと閃光のあと、爆風で畳と一緒に吹き上げられた」
畳の下敷きになり生き埋めになった。周りは真っ暗だった。
助けを呼ぶことはできなかった。
「何回頑張っても、お母ちゃん助けて、と声が出なかった」
祖父によって掘り出された。
「外で被爆した人は服が燃えて、なくなった。皮膚も剥がれて靴だけ履いていた。家の中で被爆した人は足を大やけどしていた。服は残っていた」
軍用の船で宮島に避難した後、県境の山県郡新庄村へ疎開した。
9月5日に4歳の姉が、その2日後には25歳の母が亡くなった。足から壊死した。「髪が抜けた。体が黒くなった。皮膚が剥がれた」
3歳で孤児になった。
賀茂郡豊栄町に住む父方の祖母に頼って生きた。主食はサツマイモで、カタツムリ、イナゴ、バッタをフライパンで焼いて食べた。ボールや輪投げをして遊んだ。
同時期の出来事では、1945年9月17日、鹿児島県枕崎市付近に上陸した枕崎台風(台風16号)についての記憶がある。気象庁によると、台風は九州、四国、近畿、北陸、東北地方を通過して三陸沖へ進み[2]、大きな被害をもたらした[3]。
「祖母、女学生であった叔母に連れられて、一段高い場所にある元庄屋さんの家へずっと歩いて疎開した。そこへ、いきなりだーっと水が来たので、柱にしがみついて、浮かんできた畳の上に足をやってしがみついた」
2年後には祖母が亡くなった。フィリピンのジャングルから帰還したおじ夫妻に引き取られた。黒色のランドセルを買ってもらった[4]。
1949年、祇園町立原小学校に入学し、3年生で川上小学校へ転校した。
被爆したときの記憶にさいなまれた。
「小学校に入っておばあちゃんが亡くなってからは、ずっと、当時の情景が毎晩毎晩夢に出る。昼間でも、ちょっとじっとしていると夢を見ていた」
爆風でガラスが左上腕に刺さった、その傷口が閉じたのは小学5年生のこと。実に7年かかった。
「いつも目まいで座るのがしんどい。何もできない」
川上中学校に進学した。
「頭痛、貧血、目まいで学校に通える状態ではなかった」
朝会で倒れたこともあった。
中学校に進学した後も体調がすぐれずにいたが、担任の先生にそうじ当番をほめられたことがきっかけとなり、勉強に力を入れるようになった。飯田さんによると、クラス長を務め、首席で卒業した。
県立広島工業高校機械科を卒業して、1961年、三菱重工業広島製作所に技術職員として就職した。
のちに原子炉メーカーとなる三菱重工業で、入社直後は輸出部門に配属され、英語を学んだ。情報処理に関する知識や技能向上のための国家資格「情報処理技術者」を取得した[5]。そして、広島大学で聴講生として原子力工学を学んだ。
「原子力の平和利用はこれだと思った。これが地球を救うと思い、猛烈に勉強した」
キャタピラー三菱の北陸支社へ出向し、36歳で敦賀営業所長、44歳で長岡支店長、50歳で富山支店長を歴任した。
敦賀所長在職中の1982年、日本原子力発電株式会社の敦賀原子力発電所2号機の建設が始まった[6]。現場にキャタピラー三菱製の重機を提供した。
「三菱村というのがあって、そこから毎日大型バスで人を運んで発電所をつくっていた」
発注者の日本原子力発電株式会社の担当者も三菱重工から出向中の社員だった。
1986年に赴任した新潟県長岡市でも、東京電力の柏崎刈羽原子力発電所の建設現場に重機を提供した。
「成績がものすごく上がった。高くても値切らずに買ってくれた」
柏崎刈羽原子力発電所は、1978年に1号機の建設工事が始まり、7号機が1997年に完成し、世界最大の原発となった[7]。
三菱重工を退職した後は、心理学を学び、日本交流分析協会が認定するTA(Transactional Analysis)心理カウンセラーなど複数の資格を取得した[8]。日本交流分析協会理事長、富山ユネスコ協会副会長などを歴任した。現在は、広島市の被爆体験証言者として活動している。
飯田さんによると、病気の連続で甲状腺腫瘍が6つある。染色体異状の細胞は体内の23%に及ぶ。現在も原因不明の痛みに苛まれている。
放射線影響研究所に問い合わせたところ、姉、母とともに2Gy(グレイ)の放射線を浴びた、と推定された。がん、白血病の危険があると言われている。
「咳喘息で4回失神した。三途の川を4回見た。それから人生がだいぶ楽になった」
痛み止めを服用しながら、自身の被爆体験、原爆の実相を語る。
81歳の今でも突然、「お母ちゃん、助けて」と声が出る。当時の様子が夢に出てきて、恐怖が続いたこともあった。
「広島原爆の実相を広めていかないと、核兵器廃絶には向かわないだろう」と飯田さんは思う。自身の被爆体験や原爆の実相を原爆ドームの近くで通行人に語りかける。
「放射線を受けた影響が長く続いていることを伝えるためには、私の被爆体験を語らなくてはならない。今30人いる被爆体験証言者は、あと3年、4年ぐらいで0人になるだろう。1年に10人ずつくらい減りますから。私もいなくなるまで続ける。少々具合が悪くても、車椅子になっても、杖になっても、続けていく」
飯田さんは、学生たちを前に、「核兵器を廃絶する以外に平和への道はない」と講話を結んだ。
[1] 広島市役所, 「広島原爆戦災誌 第4巻」, 1971年, 第4巻, 28項, (https://hpmm-db.jp/book/).
[2] 気象庁, 「災害をもたらした気象事例 枕崎台風」, (https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/data/bosai/report/1945/19450917/19450917.html).
[3] 国土交通省,「我が国における高潮災害の発生状況」, (https://www.mlit.go.jp/river/pamphlet_jirei/kaigan/kaigandukuri/takashio/3saigai/03-0.htm). 国立研究開発法人防災科学技術研究所自然災害情報室 客員教授水谷武司, 「10. 台風が深夜に来襲すると人的被害が昼間に比べ数倍にもなる可能性がある -1959年伊勢湾台風高潮,1953年13号台風高潮」, (https://dil.bosai.go.jp/workshop/02kouza_jirei/10isewan.html).
[4] 飯田國彦他『飯田くん level3』(平和の大切さを伝える日本語教材をつくる会、2018年).
[5] 経済産業省が認定する国家試験「情報処理技術者試験」を実施する独立行政法人情報処理推進機構によると、通商産業省(現:経済産業省)の求めによって、1969年に第1回試験が行われた。
[6] 日本原子力発電株式会社, 「敦賀発電所2号機」, (https://www.japc.co.jp/plant/tsuruga/dai2top.html).
[7] 東京電力ホールディングス, 「柏崎刈羽原子力発電所の沿革」, (https://www.tepco.co.jp/niigata_hq/kk-np/profile/history/index-j.html).
[8] ねむの木カウンセリングルーム 心理学ライフ・ナビ研究所, 「飯田國彦人生行路履歴書・講演履歴など」, (http://instlifenavi.blog.fc2.com/blog-entry-23.html).
飯田國彦『こころのバリア・フリー』(文芸社、2000年).
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