長崎で被爆した4歳の少女は84歳に「日本人だからこそ言えることがある」
- 川端 健真、岡﨑 祐仁
- 8月6日
- 読了時間: 8分
更新日:8月7日
長崎七高山の一つに数えられ、古くから信仰の山として崇められる岩屋山の東側のふもとで、1945年8月9日午前11時2分、当時4歳、今は84歳の鶴文乃さんは被爆した。家の外が青く光り、障子は燃え、家の柱が落ちる。母が慌てて衣類で火を消そうとした。鶴さんは、被爆80年を前に学生記者2人に、「これが学生や若い人たちに話す最後の機会」と思いながら、自身の被爆体験や平和への願いを語った。


1941年7月、4人兄弟の末っ子として長崎市に生まれた。長崎市街地に住んでいたが、戦争の激化に伴い家族で、岩屋山のふもとに位置する(現在の)長崎市虹が丘町に疎開した。向かい合う岩屋山と物見岳の間にある集落で、自宅から北西に700mほど歩くと滑石大神宮があった。鶴さんによれば、山に囲まれ田んぼが広がる自然豊かな場所で、「地域の子どもたちはそこに流れている小さな川で川遊びをしたり、滝壺のところで泳いだりしていた」という。
1945年8月9日、当時4歳だった鶴さんは自宅でいつもと変わらない日常を送っていた。長崎市松山町上空でアメリカ軍によって投下された原子爆弾が炸裂。発生した強烈な熱線と凄まじい爆風は一瞬にして長崎の街を破壊し、多くの命を奪った。疎開先の家は、爆心地から約3.5キロ離れており、幸い命は助かったが、原爆によって発生した熱線と爆風によって家屋に被害が及んだという。鶴さんはまだ幼かったからあまり記憶がないというが、「障子や家の柱が燃え始め、特に障子は青くて不思議な色をしながらメラメラと燃えており、母がその辺にあった脱ぎたての衣類で叩いて消していた」と当時を振り返った。その後どうなったかははっきり覚えておらず、次に残っている記憶は父と長兄のお葬式だったという。

鶴さんの父は、 爆心地から約1.3キロの大橋にあった三菱兵器大橋工場で守衛の仕事をしていた。当時、17歳だった長兄は、 爆心地から約9キロの香焼にある川南造船所で学徒動員として働いていた。8月9日は、たまたま用事があり遅れて出勤していた。香焼へ向かう船に乗るため自転車で長崎港に向かっている道中、浦上に差し掛かった時に被爆し、大きな火傷を負った。なんとか一命を取り留め、自宅の方向に逃げ帰っている途中、爆心地から約3キロの道の尾に住んでいる知人に発見され、「お宅の坊ちゃんらしき人がうちの近くまで逃げてきてるから迎えに来てください」と家族に連絡が入った。母と次男が迎えにいくと、そこには火傷により変わり果てた姿となってしまった長男が待っていた、と後年母から聞いた。 父も長兄も原爆で亡くなった。
原爆を生き抜いた鶴さんは、その後、西浦上小学校滑石分校(現・滑石小学校)に入学。周りからは元気で活発な女の子というイメージで知られていたようだが、本人によれば、実際にはそうではなかった。幼い頃から謎の体調不良になることが度々あり、体に異常を感じていたという。謎の体のだるさや脊椎のあたりのきつい感覚、何もないのに大量の鼻血が出るなど様々な症状に悩まされたが、そのころは原爆のせいだとも思っておらず家族内で「体が弱いね」と言われるだけにとどまっていた。
長崎大学の附属中学校に進学し勉学に励んでいた頃、自宅にABCC(Atomic Bomb Casualty Commission、原爆傷害調査委員会)から検査依頼の通知が届いた。1946年、放射線の医学的・生物学的な影響を長期的に調査するため、トルーマン米大統領の命令で設けられたのがABCCで、広島・長崎の原爆被爆者に対する放射線の影響を調査した。鶴さんは「体調不良の原因が分かればいいや」という感覚で検査を受けたが、ただ身体を調べられるだけで、何が原因なのか教えてもらえず、治療すらもされなかった。「行ったところで何の返事もないし、何の反応もない。私も含めて二度と行かないという人がほとんどだったんじゃないか」と鶴さんは当時の状況を振り返る。
鶴さんによれば、検査結果が記録された資料はアメリカに全て持っていかれ、検査から60年、70年経った今でも何も教えてくれない。「こういうことに注意して」という話も全く無かった。ただ検査に来てくださいという通知が来るだけだった。鶴さんは「アメリカは生き残った人たちがどうやって生きているか調べたかっただけなんじゃないか。データをとりたかっただけなんじゃないか」と思う。原爆投下について鶴さんは「人体実験だった」と思わざるを得ない。
長崎県立長崎西高校に進んだ後にも症状は続いた。鶴さんは、高校時代は特に身体中がおかしかったと振り返った。病院を何箇所回っても原因がわからず、謎の体のだるさや脊椎あたりの不快感は残ったままだった。鶴さんは全く解消されない体のキツさを和らげるため、当時住んでいた滑石地区から約10キロ離れた大浦にある整骨院に3年間通い続けた。骨を調整してもらって、その後に漢方の塗り薬を身体中に塗ってもらい包帯でぐるぐる巻きにしてもらう。「原始的な方法だったが、それが一番気持ちが良かった、一番効果的に感じていた」と話した。
長崎西高校は爆心地に近いところにある学校だった。そのため、爆心地に近い場所に住んでいた人が多かった。原爆による放射能の影響なのか、10年ほど前から「同級生がどんどん亡くなっていった」という。
2人の兄たちが早くから働き、学校に通うのを手助けしてくれたこともあり、鶴さんは大学に行かずに働くつもりだったが、兄たちからダメだと言われた。母からも「大学へ行って、資格を取りなさい」と言われ、大学進学を決意。サポートを受けながら、福岡の大学への進学を決めた。大学に進学したことで文章を教えてくれる先生と出会い、それが作家になるきっかけにもなった。在学中には、福岡市内の複数の大学が共催した小説コンクールに応募し、佳作を受賞した。
大学卒業後は高校の国語の教師として教壇に立った。その後、学生時代のアルバイトの縁で福岡のRKB毎日放送に契約社員として就職。ラジオ報道部でアナウンサーが読む原稿の制作に携わった。現在は、日本ペンクラブの会員で、平和や原爆、タイ滞在記などのテーマで著書を執筆しており、作家としても活動。2000年には第6回平和・協同ジャーナリスト基金奨励賞を受賞した。
鶴さんの兄たちは、原爆の記憶について何も語らず亡くなってしまった。兄の子どもたちも話を聞くことを控えていたという。「悲しいこと、辛いことは心の中にしまっておこうとしたのではないか」と鶴さんは推し量る。被爆当時12歳、8歳だった兄たちは母親とともに、長兄を迎えにいった際に原爆によって破壊し尽くされた長崎の街を目の当たりにした。当時に状況を覚えているはずだが、何も語らずにこの世を去った。その兄たちが勉学の道を諦め働いて支えてくれたおかげで、鶴さんは、大学で学ぶことができた。だから、鶴さんは、自分が兄たちの代わりに原爆の記憶について語っていかなければという思いを抱いた。それが原動力となり、核兵器をなくし平和な世界を築くために2006年11月から、8月9日に平和の鐘を鳴らす「平和の鐘・一振り運動」を市民活動として世界に向けて呼びかけている。
鶴さんは放射線の脅威を強調した。体の不調を抱えながら今も生きている。これまでの人生の中で原因がわからないままに(白血病のような症状で)亡くなっていった人が身の回りにもたくさんいたという。「体の不調に悩まされ、何が起こるかわからない状態で人生を送らないといけないことが生き残った被爆者の大変さだ」と語る。だから、原爆で亡くなった長兄と父を思い起こし、「兄と父のほうが幸せだったんじゃないか」とさえも思ってしまったことがあるという。
鶴さんは結婚後、3人の子宝に恵まれ育て上げたが、「放射線が2世3世にどういう影響を与えるのかが怖かった」と話す。科学的には、2世や3世に被爆が影響を及ぼすことはないと言われている。しかし、不信感は無くならない。自身の娘が幼い頃に頭が痛いとずっと言っていたこともあり、原因を突き止めてくれる医者をあちこち探し回ったという。自身の被爆と関係はないはずなのに、何かあるんじゃないかといつまで経っても結びつけてしまう。これが被爆者の不幸なところなんだと胸の内を明かしてくれた。被爆者にとって原爆は今も終わっていない。「核兵器は人類にとって最悪なもので人道的に絶対に使ってはいけないもの。皆さんの時代に戦争をしていた昔に逆戻りしないようにしないと」と語り、ロシアのウクライナ侵攻については「時代が後ろに向いた気がした」と話した。
昨年10月に日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)がノーベル平和賞を受賞したことについては、「これからの活動の大きなメッセージになる。若い人がつないでほしい」と期待を寄せた。

近年は世界各地で戦争が起こり、核兵器の使用が危ぶまれる事態も生じている。今後について「感情的に核を使ってしまう人が現れるかもしれない。何が起こるかわからない」と危惧している。こうした世界の情勢を考えると、「やっぱり他人事ではなく、自分ごととして考えてほしい」と話す。「世界で唯一原爆が落とされた日本に住む日本人として、その経験をしっかり心に留めて、もう二度と被爆者を生み出すということがないように頑張ってもらいたい。日本人だからこそ言えることがある。格好つけて何かをやるということはしなくていい。自分に身についたもので自然に話してほしい。」



